45 山うなぎの蒲焼きとステッキ

45 山うなぎの蒲焼きとステッキ

 第二次世界大戦の頃のことです。当時の大和村も戦争が進んでくると、配給がきびしくなり食糧も不足になってきました。今まで農業をしていなかった人達も、空地にジャガ芋、とうもろこし、スイートメロン等作りましたが、なれないため失敗した事もあったそうです。

 栄養補給のため「山うなぎをたべた人もいた」と聞いたので、よく話を聞いてみたら、それはヘビの事でした。
 現在の玉川上水駅付近は、雑木林が続きワンパク少年達の遊び場でした。
 そこには長さ七〇センチメートルから一メートル位の、茶色に黒の縞蛇(しまへび)や、青大将、黒い地もぐりが沢山いました。
 地方から日立航空機に動員された青年の中に、ヘビ取りのじょうずな人がいました。 まず雑木林から、適当な木の枝を見つけ先を割り、紐をつけた棒をはさんで簡単なヘビ取り器をつくります。
 ヘビを取る時は、細工した枝を何本も用意して出かけ、ヘビを見つけたらそっと近づき、首をはさんでひも紐を引くと、ヘビは苦しくて棒にまきつき簡単にとれました。 
 とったヘビの肉は骨つきのまま、四、五センチメートルに切って串にさして、醤油をつけて焼いてたべました。くさみもなく醤油の味がよくしみて、「山うなぎの蒲焼き」と云って貴重なタンパク源となりました。

 又、ヘビでステッキを作った人もいました。肉を押し出すと、むいた皮は裏返しになるので、もう一度表に返るように棒をさします。そのまま水にさらしてから、風通しのよい場所で蔭干し乾燥させると、皮が棒にぴったりとはりついて、立派なステッキができ上りました。本式には上薬(うわぐすり)を塗って仕上げると、つやもよく、うろこもはがれなかったのでしょうが、塗料もなかったので、そのまま使用していたら、だんだんうろこがはげて来てしまったということです。
(『東大和のよもやまばなし』p100~101)